楽園の地図80号 私とアメリカ/私のアメリカ

ディズニーランド/スピルバーグ/ウクライナ/マーヴィン・ゲイ
船長と助手 2025.03.07
誰でも
<a href="https://maps.app.goo.gl/ZzTpQppGtMaFqC787" target="_blank">Times Square</a>, NYC, USA

Times Square, NYC, USA

もくじ

はじめに(トランプとアメリカ)
私とアメリカ1 ディズニーランドとマイケル・ジャクソン
私とアメリカ2 バック・トゥー・ザ・フューチャーとスピルバーグ
インターミッション1 ボーン・イン・ザ・USA /ブルース・スプリングスティーン(1984)
私とアメリカ3 マクドナルドとミスタードーナツ
アメリカと戦争1 湾岸戦争(1990)
私とアメリカ4 アメリカ横断ウルトラクイズ
私とアメリカ5 Windows/Macintosh。パソコンの時代
アメリカと戦争2 9.11とアフガン、イラク
インターミッション2 アメリカ/斉藤和義(2004)
私とアメリカ6 「7つの習慣」(スティーブン・コビー)「マネジメント」(ドラッカー)
私とアメリカ7 「Twitter」「Facebook」「YouTube」「スマートフォン」
私とアメリカ8 ハワイ旅行、ボストン訪問
私とアメリカ9 スニーカー、リュックサック、サードウェーブ
私とアメリカ10 臨床心理学
私とアメリカ11 自由の女神/ニューヨーク
アメリカと戦争3 ウクライナ、ロシア、アメリカ
アウトロ What's Going on/Marvin Gaye(和訳歌詞付き)
おわりに

はじめに

トランプとアメリカ

沖縄から荷物を搬出して、東京に運んでます〜。引越しってわりと1日で終わると思いきや、沖縄←→東京の場合は船での運搬となるため、搬出日と搬入日が異なります。なので今頃私の本とかDVDとか、大事な荷物は洋上を進んでいると思われます。運んでいるのは当メディアではお馴染みの船長と助手みたい人たちだったりして。ちょっと心配。

さて、今週は、ウクライナのゼレンスキー、ロシアとプーチン、そしてアメリカのトランプとのやりとりに夢中になってしまいました。いやいや、これはすごいことが起こってます。こんなことつぶやきましたけど。

楽園の地図🏝️
@rakuenmap
私はずっと、アメリカがナンバーワンだと思って育ってきた。学校の教師や親はどちらかといえば左翼傾向があったので反米だった。でも私は知っていた。結局のところ日本人のそれは親への反抗心のようなものだと。映画だって音楽だって企業だって、総合的に見てアメリカがずっといいだろって。
2025/03/02 19:01
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どうやら私は自分が思ってるよりずっと、アメリカという国が好きみたいです。なんか、沖縄の人に怒られそうですが、アメリカが好きなんです(コロナ禍に沖縄に引越したのも、日本でもっともアメリカを感じられる地区が沖縄だからという面も大きいです)。

私のアメリカ好きは基本的には所ジョージとか山下達郎とかとたいして変わりません。あるいは村上春樹、片岡義男に細野晴臣でもいいですけど。つまり、文化としてのアメリカが好きなんです。そこで今日は、いつもと装いを変えまして、私とアメリカ/私のアメリカというタイトルで、アメリカ愛を語る回にしたいと思います。

これは歴史的転換点を迎えるアメリカに対するラブレターです。

私とアメリカ

私とアメリカ1 ディズニーランドとマイケル・ジャクソン

生まれて最初にアメリカという国を知ったのはいつだったか。どれが最初か定かではありませんが、よく覚えているのは、母親の実家が千葉県にあり、夏休みはよく1ヶ月単位で千葉にいました。夏休みに千葉に子供が連れられていくと、ディズニーランドに一度は行くことになります。私は特にディズニーに行きたいとせがんだことはありませんが、どちらかといえば親がディズニーが好きだったのでしょう。ディズニーランドの光景は、私にとって最初の「アメリカの雰囲気」でした。

千葉県浦安市に東京ディズニーランドがオープンしたのは1983年。私は1981年生まれで、最初にディズニーに行ったのは小学生より前だったと記憶しているので、オープンしてまもなくディズニーランドに行ったことになります。たぶんこれはとても初期の、アメリカとの接点でした。

当時のディズニーランドのアトラクションのうち、最も人気だったのは、スペースマウンテンです。当然めちゃくちゃ長い待ち時間があったのですが、その待ち時間を楽しませるために繰り返しMVをテレビは流してました。その映像には、マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」と言う曲のビデオが流れてました。いや、ライブシーンだったかもしれません。どちらにせよ重要なのは、このビデオの中のマイケルは伝説のダンスステップ、ムーンウォークを披露していました。それはスペースマウンテンの無重力というイメージ、そしてディズニーが持つ煌びやかな雰囲気にぴったり合ってました。東京にディズニーランドがオープンしたのと、マイケルがビリージーンを発表したのは1983年。私が小学生になるのが1987年なので、私はこのビデオを83〜87年のどこかで見て、そして夢中になりました。

私とアメリカ2 バック・トゥー・ザ・フューチャーとスピルバーグ

小学生に入った頃、近所にレンタルビデオショップが登場しました。父が借りてきた映画の中に、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」はありました。「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の初作は1985年。特に私が好きだった「バック・トゥー・ザ・フューチャー2」は1989年のことです。私は8歳で、夢中になってマイケル・J・フォックスの演技を見ていました。

以降、私の映画人生は始まるわけです。世界にはさまざまな映画、当楽園の地図でも紹介している通り、本当にさまざまな国のさまざまな映画を観ました。しかし、一体何作品が、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズを越えるワクワクを提供することができたのでしょうか。

この頃の日本はレンタルビデオ屋が密かなブームになっていて、成人であればちょっとHなビデオでも借りてきたのだと思いますが、8歳(1989年当時)だった私はそうなるにはまだ早いです。そこであらゆる映画を見るようになるのですが、この時代の映画人といえばなんと言ってもスティーブン・スピルバーグです。スピルバーグがこの時期に監督した、あるいは制作に関わった作品のリストを紹介しましょう。

ジョーズ(1975年)
E.T.(1982年)
グレムリン(1984年)
インディー・ジョーンズ/魔宮の伝説(1984年)
バック・トゥ・ザ・フューチャー(1985年)
グーニーズ(1985年)
インディ・ジョーンズ/最後の聖戦(1989年)
バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2(1989年)
グレムリン2(1990年)
バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3(1990年)
ジュラシック・パーク(1993年)

どうでしょう、この、タイトルを並べただけでアメリカのある時期の映画史を俯瞰できるような、うっとりとするような映画タイトルたちは。私のアメリカは、まずはスクリーンの中で成長していきました。

インターミッション1 ボーン・イン・ザ・USA /ブルース・スプリングスティーン(1984)

アメリカは、憧れだけではなかった。1984年、ブルース・スプリングスティーンは、アメリカの労働者階級、特にベトナム帰還兵の苦悩を歌った。しかし皮肉なことに、この「Born In The U.S.A」と高らかに歌う曲調は真逆の意味で政治利用され、大統領選などで愛国心などを示す曲としてしようされることになる。

私とアメリカ3 マクドナルドとミスタードーナツ

どちらかといえば意識の高い母親は、あまりファーストフードを好まなかったように思いますが、とにもかくにも当時の子供でマクドナルドが嫌いな子供はおりません。また、私の地元にはミスタードーナツがあり、そこでよく父親は金曜日あたりになるとドーナツを買って帰ってきました。オールドファッションばかりでしたが。ポンデリングなどが発売されるのはまだ後のことです。ミスドの店内には、いつもアメリカのオールディーズが流れていて、私はそこでアメリカの、ある時期の素敵な音楽によく触れていました。

曲のタイトルも知らなかったけど、でもこんな曲がよく当時のミスドではかかってました。

私とアメリカ1〜3が、私のアメリカの原型と言えるかもしれません。私は小学生に上がる前、あるいは小学生の低学年で、ディズニーランドに行き、マイケル・ジャクソンというスーパースターに触れ、バック・トゥ・ザ・フューチャーを見て、スピルバーグという映画人の作品に触れ、そしてマクドナルドでハンバーガーを食べ、ミスタードーナツでドーナツを食べ、そこでオールディーズを聴いたから、私の心はアメリカに奪われてしまったといえます。こうして改めて振り返ってみると、ほんとに素晴らしい文化に、幼少期に続々と出会ってしまったんだな、と思います。

アメリカと戦争1 湾岸戦争

1990年、サダム=フセイン率いるイラクは、隣国のクウェートに侵攻します。ミニ国家であるクウェートはあっという間に全土を制圧されますが、クウェート政府要人はサウジアラビアに亡命。その後、クウェートを助けるという名目で、世界中のさまざまな軍による連合軍として、「多国籍軍」は結成されました。その多国籍軍を率いたのは、他でもなくアメリカでした。前年には東西ドイツを分ける「ベルリンの壁」が崩壊し、東西冷戦が終焉に近づく中、アラブ諸国を含む世界中のさまざまな国を従え戦うアメリカは、世界のリーダーという雰囲気でした。アメリカが国連決議の動きを待たずに、自国主導の軍事行動を行うという新しい時代に突入しました。

圧倒的な兵力を見せる多国籍軍はイラクに侵攻し、わずか2ヶ月足らずでイラクを制圧します。その様子をテレビで見ていた一般人はこう考えました。「なんか、アメリカの映画みたいだな」。この戦争は、通信技術の発達によって戦地からクリアな映像が送られてくる最初の大きな戦争でした。おそらく、「弱小国クウェートを救うために、多くの国の協力を得て立ち上がったアメリカ」というストーリーを醸成するために、このようなクリアな映像をあえて流したのでしょう。

作戦ではイラクの一般人も多く死傷し、一部では批判もありました。しかしこの戦争で見せつけたのはどちらかというとアメリカのリーダーシップの強さです。

一方、そもそも「自衛」以外の目的の軍隊を持たない日本は、兵を派兵することはなかったものの、多額の資金(135億ドル)を提供しました。金は出すが兵は出さない日本の外交姿勢は、「小切手外交」と非難されました。クウェートから多国籍軍への感謝の言葉には、日本の名前はなかったそうです。この一件から日本は自衛隊派遣に舵を切ることになります。

NHKアーカイブス 湾岸戦争

私とアメリカ4 アメリカ横断ウルトラクイズ

私はテレビっ子でした。当時はインターネットなんてなかったので、いつも、いつだってテレビを見てました。私や、私の上の世代に「アメリカに興味を持ったのはいつか?」と聞くと、意外とこの「アメリカ横断ウルトラクイズ」をあげる人が多かったです。アメリカ横断ウルトラクイズとは、当時の日本テレビ系で年に一度放送される特番で、今思っても画期的な企画だと思います。東京に集まった数万人の挑戦者が、さまざまなクイズに挑戦しながら振り落とされ、100人前後が成田空港へ行けます。そこからじゃんけんをして、勝った50人が機内へ。飛行機内でペーパーテストをやって、成績が良かった人がグアムの地を踏めます。次のチェックポイントはハワイ、そこから西海岸。そこから先は、広大なアメリカを横断しながら、最終的にたった2人がニューヨークの自由の女神に辿り着いて、そこで優勝者を決めるという画期的な番組です。

当時、海外旅行なんてまだ夢の時代に、ただクイズを勝ち上がっていくだけでいつかはニューヨークに行けるんだという夢を与えた番組です。今思うと、この番組に参加するためだけに会社を辞めたり内定を蹴ったりする人も続出する番組で、なんでそんなしてまでニューヨークに行きたいのか、と聞かれると2025年の今となっては説明が難しいのですが(笑)、とにかく当時の熱狂として、アメリカとはそういう憧れの地でした。

私とアメリカ5 Windows/Macintosh。パソコンの時代

私が思春期を迎える頃、Windows95は14歳、Windows98は17歳でしたが、とにかく世界にパソコンが登場します。一般家庭にもパソコンが普及し出したのはさらにあとの2000年以降のような気がしますが、新しものが好きだった父は、これも何かの役に立つだろうと思ったのか、Windowsパソコンを私にプレゼントしました。

そうは言っても作画に興味もない私にとって、当時のパソコンでできる最大のことは、ワードファイルに文章を書くことぐらいでした(インターネットにも接続できましたが、ダイヤルアップ接続といって接続ごとに電話料がかかるという今思うと信じられないぐらい高価な作業だった)。でも、このことが私の現在(ライター業)に確かに繋がっています。当時も今も、パソコンといえばWindowsかMacですが、どちらもアメリカ製です。少年期にたっぷりアメリカの情操教育を受け取ったあと、思春期にはアメリカが生んだパソコンで、私は文筆家としての扉を開きました。パソコンがなかったら、インターネットがなかったら、それがアメリカから来なかったら、私はどこで何をしているのだろう。

アメリカと戦争2 9.11とアフガン、イラク

2001年9月11日、2機の飛行機がニューヨークの世界貿易センタービルに激突。3000人が死に、25,000人以上が負傷しました。犯人はアルカイダというアフガニスタンに本拠地を置くイスラム過激派テロ組織。これはアメリカ本土、しかもニューヨークで25,000人が負傷した歴史上において最大のテロとなりました。実はアメリカ本土が戦地になったことはこれまでの歴史でなかったため、9.11はある意味、「はじめて成功したアメリカ本土への攻撃」と言えるかもしれません。

当時、東西冷戦が終わって、湾岸戦争でも強さを見せつけたアメリカは、もはや敵なしという状況で、アメリカが推進する、金融自由化や貿易自由化をすすめるグローバリゼーション(実際にはアメリカナイゼーションとも)を推し進める唯一の超大国でした。そんなアメリカに対し真っ向から刃向かう国家はなくなったものの、このテロはイスラム過激派という国家から独立した新しい敵の出現を意味しました。

アメリカは事件を受けてアフガニスタンを爆撃。身柄引き渡しに協力しなかったタリバン政権を崩壊させました。しかし、テロの首謀者であるウサマ・ビン・ラディンはアメリカの侵攻にも負けず10年近く逃げ続けるも、2011年5月にアメリカ軍の攻撃により殺害されました。しかしその後もアフガンでは泥試合が続き、反米を標榜したアフガンのタリバンとの戦闘に明け暮れた米軍は、2021年についに撤退を発表。

一方、アメリカはイラクが大量破壊兵器を保持しようとしていると発表し、2003年に侵攻。イラクのトップサダム・フセインを殺害します。しかし、アメリカが主張した大量破壊兵器は存在しなかったことがのちに判明。国際社会はアメリカ軍への批判を強めます。

つまり、アフガンとの勝負はアフガンの粘り勝ち、イラクとの勝負には勝ったものの正義がないような戦争になってしまいました。

日本は、PKOという国連主導の平和維持活動以外の戦闘活動に、戦後初めて自衛隊を派遣しました。後方支援を行うという名目ではあったものの、戦争に加担したのは明白です。これは自衛隊とは自国を守るために存在する、という戦後の取り決めが無効になったことを意味します。

日本がアメリカと心中しようと決めた戦闘は、皮肉にもアメリカの信用を大きく損ねることになった戦闘になりました。

9・11米国同時多発テロ

インターミッション2 アメリカ/斉藤和義(2004)

〜アメリカを探したけど 何処にもなかった〜斉藤和義

私とアメリカ6 「7つの習慣」(スティーブン・コビー)「マネジメント」(ドラッカー)

とにかく不完全な状態から社会に放り出されたレペゼン不景気、レペゼン氷河期世代の私は、溺れるものは藁をも掴む状態で、とにかく何かバイブルを探し求めました。当時はなぜかビジネス書の購読が流行っていて、なかでも有名だったのが、ドラッカーの「マネジメント」と、コビーの「7つの習慣」です。

はっきりいえばビジネス書なんて、あんまり役立つものではありません。特に日本の経営者が書いている新書サイズのビジネス書なんて、大抵は自慢話と、自社の宣伝と反対に編集者に提案されたわかりやすい失敗エピソードが決まったフォーマットで展開されてるだけで読むだけ無駄だというものです。でも、「7つの習慣」と「マネジメント」だけは、荒野に咲く花のように、よくできたビジネス書です。私はこうやって、大きな目的意識を大事にし、起業家の道へと勤しんだのでした。ここでも私の道を切り開いたのは、アメリカでした。

マネジメント エッセンシャル版(ドラッカー)

7つの習慣(スティーブン・コビー)

私とアメリカ7 「Twitter」「Facebook」「YouTube」「スマートフォン」

Twitterが「歴史」になる日が来るとは思いもしませんでした(現:X)。それまでmixiを楽しんでいた友達は、だんだんTwitterへと流れていき、ずっとmixiにいた私はどうも世の流れから遅れているような感じになりました。こうして国産サービスは息絶え、いつの間にかアメリカのサービスが日常に溢れていました。Twitter、Facebook、Instagram、YouTube、ZOOM、Apple music、UBER(eats)、NETFLIX、Amazonプライム、Booking.com、AirBNB、Expedia、そしてChatGPT。それらはiPhoneやアンドロイドのスマートフォンで見るものになりました。みんな、みんな、みんなアメリカのサービスです。

どうしてみんなアメリカのサービスばかり使うのだろう。そう思いながらも、私もアメリカの大企業が作ったサービスの便利さの恩恵にたっぷり預かっていました。

私とアメリカ8 ハワイ旅行、ボストン訪問

2010年代のある日、私はハワイに遊びにいきました。ハワイはとても暖かく、気持ちいい風が流れていて、ご飯が美味しく、この地に住んでみたくなりました。

ワイキキビーチ

ワイキキビーチ

また別のタイミングでボストンで音楽を学ぶ友人に遊びにいきました。カリフォルニアやその他の地はまだ踏んでません。

私とアメリカ9 スニーカー、リュックサック、サードウェーブ

それまでの日本の男性のビジネスマンといえば、スーツ、ないしは夏場はシャツにジャケット、靴は革靴、手にはレザーバックなどが基本でした。私もそういう格好をよくしていました。しかしある時期から、ビジネスマンもスニーカーを履き、両手が空くリュックサックを背負うようになりました。彼らは自転車を使いこなし、スターバックスやサードウェーブのコーヒーを飲むようになります。

スニーカーはNIKE、手にはブルーボトルコーヒー、背負うリュックサックはTHE NORTH FACE、頭にはNEW ERAのキャップ。そしてiPhoneに接続したイヤホン(まだAirpodsではない)からはアメリカのHip Hop。私もいつの間にかそんなファッションになっていました。こんな私でも、90年代は浦原宿系の国産ブランドを着ていたような気がします。気がついたら、またすべてアメリカの商品になっていました。

私とアメリカ10 臨床心理学

私にうつ病のような傾向が出て、高速道路の路肩に車を停めるように、すべてを急にストップしたくなりました。私は家庭環境に問題を抱えていて、それが要因の一つとなって多くの性格的な問題を抱えていました。ずっと先送りしてきた問題に向き合う時期が来ていました。

私はカウンセリングに通うことにしました。私は、心の中に住む彼らと対話することを選びました。それは非常に困難な道でした。自分の中にある悪意と対話するのは心が折れる作業でした。それでももう、私のことが原因で誰のことも傷つけたくなかったし、自分も傷つきたくなかった。

精神分析は、フロイトによって生まれたからオーストリア生まれだ。しかし、それを臨床心理学という分野で広げてきたのはアメリカだ。たとえばアメリカには、カール・ロジャースという心理学者がいる。アメリカはどうやら精神病大国だ。だからこそ、そういう分野も発展を遂げてきた。日本人と話していて感じるのは、日本人は自然主義なのだ。つまり、自分という存在はナチュラルなものだと。それを変えようとする必要はないじゃないか。それはとても東洋的だし、オリエンタルな思考だ。一方で、西洋は、自分を含む自然はコントロールする対象だと考える。自分とは馬で、それを乗りこなす騎手が私という主体だ。「7つの習慣」的なビジネス書を読んできた私にとってはその感覚は馴染みやすいものだった。自分の年収や、知識や、能力を変えていけるのであれば、心の中だって変えていけるはずだ。そういう価値観にBETした私は、時間をかけて、自分の中にある幼児の頃の不満と向き合い、一つずつ分別し、解決できるものは解決してみた。その作業は完了しなかったが、やっていく途中で楽になっていく感覚を実感できた。それは少なくても私にとっては興味深く楽しい作業だった。そして思っても見ない副次的な効果があった。私はそれまでよりも素直にテキストを綴ることができるようになった。

私が育った時代の日本の義務教育や日本人の親は私の問題に向き合ってはくれなかったが、アメリカ由来の臨床心理学は私という存在に徹底的に向き合うチャンスをくれた。

私とアメリカ11 自由の女神/ニューヨーク

2019年、ニューヨークに旅行した。スタテン島に向かうフェリーの途中で、私は自由の女神を拝んだ。あの自由の女神は、アメリカがイギリスから独立する際に、フランスがプレゼントしたものだった。洋上に浮かぶ女神はとても綺麗だった。

アメリカは、主にヨーロッパからやってきた白人たちと、アフリカから連れてこられた黒人たちによってできた国だ。ヨーロッパと一言で言っても、アイルランドとイタリアじゃ文化もしきたりもまったく違う。だから、アメリカには最初からまとまりなんてなかった。

日本は、世界で唯一の日本語を話す人たちによる、世界で唯一ここにしか集住していない日本人たちのための国だ。だから、日本が一つの国であることに疑いを持つ人は少ない。一方、アメリカは多民族国家だ。私たちは一つのアメリカ国民であると団結するには、一つの共通した物語、コンセプトが必要だった。

それは、ある部分では「自由」というキーワードだった。これはアメリカの歴史に通底する物語だ。私たちはそもそも自由であり、あらゆる個人は国家の介入を受けず、自分らしく生きる権利がある。もちろんそれはある意味で絵空事であり、たとえば長い間黒人は苦しめられてきたし、ある部分では帝国主義的な側面を遺憾無く発揮した。多くの戦争で間違ってきた。

それでも、ヨーロッパから海を超えてきた人たちにとって、アメリカは確かに自由の国だった。かつての国のように、階級やしがらみは存在せず、挑戦するものには平等に権利が(たとえ表向きだけであったとしても)あたえられた。そんなアメリカに、フランスは自由の女神というプレゼントを送った。あれがアメリカの誕生の物語なんだ。

自由の女神の足元には、引きちぎられた鎖と足枷がある。これは、すべての弾圧と抑圧からの解放を指す。考えてみれば、足元の軽いNIKEのスニーカーも、気軽にコーヒーを楽しめて職場と自宅以外のサードプレイスを提供するスターバックスも、あらゆることを便利にしたパソコンもスマホも、本来は自由を人々に与える商品だったし、実際にある面ではそうなった。しかし、アメリカがテロリストと戦えば戦うほど自由から遠ざかる場合もあったように、パソコンもスマホもスタバもマクドナルドも受け入れた私たちも、自由を享受するつもりが新たな不自由を生みだしもした。それでも、私は思う。アメリカのことを嫌いな人も多いかもしれないけど、じゃあ最高な国家はどこにあるんだろう。日本も、イギリスも、フランスも、ロシアも、中国も、アメリカと同様に、いや時にはそれ以上に罪深い国家であることは変わりない。

アメリカと戦争3 ウクライナ、ロシア、アメリカ

今年2月28日、アメリカ大統領のトランプとウクライナ大統領のゼレンスキーは会談中に激しい口論になった。首脳会談で露骨に国の首長同士が舌戦を繰り広げるというのはあまり見たことがない。

小国であるウクライナが、大国ロシアと一応互角に(現在は押され気味ではあるものの)戦ってきたのは、アメリカはじめ、米欧の支援があってこそだ。しかしトランプは、彼らの戦争を辞めたがっていた。

トランプは会談ではっきりと、「他のことにお金を使いたい」と話した。いくらトランプが歯に衣着せぬ発言をする大統領だからって、なかなかに重い発言だと思う。私はこの発言を聞いて、アメリカはとうとう変わったんだと思った。それは私の知ってるアメリカではない。アフガンやイラクに出向いていって、多額の資金を戦争に費やし、率先して「彼らが思う」自由と民主主義を広めるために戦争を繰り広げてきたアメリカではなかった。

トランプは元々ビジネスマンだ。コスパ意識に秀でてる。だからこそ、この戦争はコスパが悪いと言いたいのだと思う。でも、確かにトランプが言ってることも一理ある。毎日2000人や3000人のロシア人とウクライナ人が戦争で死んでいる。もう終わらせようとトランプは言っている。正しいことを実行するには、実は正義は必要ないのかもしれない。

それでもなお、私は考える。本当にそれでいいのだろうか? ウクライナはそれでいいのか? ウクライナはクリミアをとられ、ドンバスをとられ、そして東部4州を取られようとしている。もしも日本で、沖縄と九州が奪われたまま、残りの土地をもって停戦しろと言われたら、私たちはどう考えるべきだろう。あるいは、土地の存在は人命ほどでないのかもしれない。でも、ロシアが再びウクライナに攻め込まない保証はどこにあるんだろう? また戦争を始めないという約束はどうやって取り付ける? だからこそ、ゼレンスキーは抵抗を見せた。

本当にそれでいいのだろうか? はむしろ、アメリカに思う。あの対談は、喧嘩の弱い国が、強い国のルールに従えと言われているような対談であった。それは、本当に建国の意思に背いてはいないのだろうか。

とうとうアメリカは、他国の戦争に自由に首を突っ込める余裕がない国になった。正義を振りかざすにも、コスパがよくないといけない。それはいいことなのだろうか、悪いことなのだろうか。私にはまだ判断がつかない。ただ、これはアメリカの大事な転換点の一つであることは疑いようがない。私が愛した、ディズニーランドの、マイケル・ジャクソンの、バック・トゥ・ザ・フューチャーのアメリカはどこに行こうとしてるのだろう。

アウトロ What's Going on/Marvin Gaye(和訳歌詞付き)

それでも、どんなときだってアメリカには素晴らしい音楽と素晴らしい映画、素晴らしいプロダクト、素晴らしいメッセージがいつの時代もあったことは間違いない。どうか偉大な国民の住む偉大な国であってほしいと願う。

おわりに

船長「なあ、この船はさ、いったいどこに向かうんだと思う?」
助手「そりゃもう、決まってるでしょ。大海原に向かいましょう」
船長「いやだけどさ、そもそもずっと洋上にいるんだから、今も大海原にいるよ」
助手「つまりあれですね。船長は目的や目標が欲しい」
船長「そうだね」
助手「じゃあ海賊王になるってのはどうですか?」
船長「却下。もっとさあ、現実的なやつ」
助手「彼女を作る」
船長「いやそんな目標なら一刻も早く陸に上がるべきだよ」
助手「じゃあどんな目標ならいいんですか?」
船長「もっとさあ、ほら、みんながハッピーになるやつ」
助手「世界平和」
船長「それは、、、どうやって実現するの?」
助手「うーん。まずは僕たちが仲良くしましょう」
船長「確かにそれは平和に一歩近づくね」
助手「これで私たちの世界は平和です」
船長「もうちょっと平和を広めていけないかな。できればもっと大きく」
助手「あ、いいこと思いつきました。スマホを立ち上げて、Xを開いて、、、よし。とりあえずあらゆる政治家に『戦争をやめろ!』ってメンションを送っておきました」
船長「お、お、おう」
助手「誰からも返信来ませんね。あれ? なんかブロックされちゃいました」
船長「なんか、むしろ平和から遠ざかったね。」
助手「じゃあ逆に、あらゆる政治家に『おっしゃるとおりですね』ってメンション送っておきました」
船長「お、お、おう。どうなった」
助手「リポストされてフォロワーが少し増えました」
船長「。。。なんか、何かを始めるときに、まずスマホを開くのをやめるってのはどうだろう」
助手「それいい目標ですね」

(つづく)

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