楽園の地図第92号 私と韓国/私の韓国

Bukchon Hanok Village, Seoul, Korea
もくじ
はじめに
私と韓国1 ソウルオリンピック(1988)
私と韓国2 大韓航空
私と韓国3 学校教育と在日
K-POPのルーツ1 おかっぱ頭/チョー・ヨンピル(조용필)(1980年)
韓国と内乱1 光州事件(1980年)
K-POPのルーツ2 オジャパメン(어젯밤 이야기)/ソバンチャ(조용필)(1987年)
私と韓国4 僕とボクの恋と失恋
K-POPのルーツ3 ポンチャックとイ・パクサ(조용필)(1995年ぐらい?)
K-POPのルーツ4 I Know/ソテジ・ワ・アイドゥル(Seotaiji and Boys/서태지와 아이들)(1992年)
韓国と内乱2 アジア通貨危機(1997年)
私と韓国5 韓流旋風現る。ヨン様のヅラをかぶる(2004年)
韓国とサイバー 世界最大のインターネット普及率
K-POPのルーツ5 KARAと少女時代(2007年〜)
私と韓国6 「サニー 永遠の仲間たち」(2011年)
私と韓国7 カンナムスタイル/PSY(2012年)
私と韓国8 赤坂の夜
私と韓国9 ボクのその後
私と韓国10 ウォンダンカムジャタン/明洞・ソウル(2013年)
私と韓国11 「パラサイト 半地下の家族」(2019年)
アウトロ 黄色いシャツ(노란 샤쓰의 사나이)/ハン・ミョンスク(1961年)
はじめに
来週は(たぶん)ベトナムからお届けします!
来週から久々の海外遠征を控えているのに、風邪のようなものを引いてしまいました。私の場合、なぜか旅の直前に体調を崩すことがあるのですが、みなさんは旅行の前に体調を崩したらどうしますか? いつも悩ましいですが、私の場合は念のためお薬だけもらって出かけちゃいます。不思議なことに旅先のほうが体調が回復することが多くて(アドレナリンでも出るんでしょうかね?)。
でも、こんな暮らしもいつまで続くのやら。とりあえず医者に行って風邪薬を1週間仕入れてきました。
さて、調不良のなか、海外遠征を急いでいるのも、どうもこの「楽園の地図」の記事もそろそろネタ切れだからです。よくぞ92回も続いたと自分でも思いますが、とりあえず今週も何か書かなくてはいけません。以前、『私とアメリカ/私のアメリカ(第80回)』というタイトルで、個人的なアメリカへ思いを書いたのですが、今回はそれの韓国版です。
いまやK-POPや韓国映画などは国産映画やJ-POPをしのぐほどの人気となりましたが、一方で同胞北朝鮮の存在など、さまざまな面で問題を残す国家でもあります。あなたは、私たちの隣人である韓国について、どのような思いがあり、何を知ってますか? 前回、アメリカ版も「勉強になった」とのお声もいただきましたので、今回も、知ってるようで知らない隣国の歴史を、個人史と絡めながら紹介します。
あと、全部読めば、なぜ韓国産の音楽が現在世界中でヒットしたのかがわかるかもしれません。
私と韓国1 ソウルオリンピック(1988)長いライバル関係の始まり?
韓国という国を意識したのはいつだったか。記憶を辿ってみても、アメリカ=ディズニーランドとの出会いのように明確ではありません。ただ、1988年のソウルオリンピックははっきり記憶しています。今思えば、テレビに映るソウルオリンピックが、私にとって最初の韓国だったと思います。私は7歳、小学1、2年でした。子供の頃に衝撃だったのは、100m男子競技。当時、ベン・ジョンソンとカール・ルイスという2人のランナーがライバル視されましたが、結果的にはベン・ジョンソンがドーピングで失格になるという衝撃のクライマックスで幕を閉じました。この結果は当時の学校でも話題となりました。
実はソウルオリンピックは、アジアでは東京に続いて2都市目の夏季オリンピックの開催地でした。夏季五輪の開催地の世界地図を見てもらうと分かりますが、世界のあらゆる場所で開催されているイメージのあるオリンピックですが、ヨーロッパ、アメリカに開催地が偏っていることは一目瞭然です。2008年には北京で開催されて、アジア3番目の開催地となるのですが、とにかくこの時点ではソウルは東京に次いで2番目の夏季五輪開催地です。
私の中のイメージとして、韓国という国は、長らく日本という国を追いつこうとするランナーのイメージなのですが、ソウルオリンピックは、日本と韓国という長いライバル関係がはじまる、号砲だったのかもしれません。ベンジョンソンとカールルイスという2人のランナーのように、日本と韓国は東アジアという舞台で鎬を削る二人のランナーでした。ただ、この時点では明らかに日本が先頭を走るランナー、韓国の姿は遥か後方にありました。東京五輪が1964年開催、ソウル五輪が1988年。その差24年ってところでしょうか。日本か韓国、ドーピングで失格を喰らうのは、果たしてどっち?
私と韓国2 大韓航空
最初に海外旅行に行くのは1990年のこと。小学3年生。ソウルオリンピックからそう遠くない時期です。行き先はヨーロッパ・イギリスだったのですが、私たち家族はJALやANAより安いという理由で大韓航空に乗りました。
機内食としてキムチを食べました。私が人生で最初に乗った国際線の旅客機は、ずっとうっすらキムチの香りが漂っていたように思います。
私の母親は明らかにアジアの途上国に差別心があり、なぜ今からヨーロッパに行くのにキムチの匂いを嗅がなければならないのかと露骨に嫌がっていました。私と韓国の出会いは、それほどいいスタートではありませんでした。
私と韓国3 学校教育と在日
私が育った大阪には、在日韓国・朝鮮人が多く暮らしていました。そういう土地柄があってか、道徳の授業としてよく、被差別部落の差別を考える授業と同様に、在日韓国人・朝鮮人差別に対する授業も行われました。裏を返すと、この頃の日本人には、在日韓国人・朝鮮人に対する差別がまだ色濃く残っていたのでしょう。
私は授業中、大韓航空で嗅いだキムチの香りを思い浮かべていました。
インターバル K-POPのルーツ おかっぱ頭/チョー・ヨンピル(조용필)(1980年)
1970年代、80年代当時の韓国歌謡界のスーパースターといえば、チョー・ヨンピル。日本でも「釜山港に帰れ」などの演歌(韓国ではトロットと呼びます)を歌っていましたが、私は断然、演歌調の曲よりこっちの方が好き。
この曲はテクノ時代の始まりを象徴するヘンテコなイントロでスタートする、かなり好きな曲なのですが、韓国人以外の人にとっては、私のようなよほどの奇人でない限り、改めて聴かない曲でしょう。
この頃、韓国語の曲が世界中でヒットする時代が来るなんて誰が予想したでしょうか? 1980年といえば、日本ではYMOが世界的にヒットを飛ばす時期。ドラマでは「探偵物語(主演:松田優作)」などなかなか見どころのある作品が流行っていました。
韓国は、少なくても80年代、90年代と、日本の遥か後方で走るランナーでした。
韓国と内乱1 光州事件(1980年)
中国・北京で自由化を求めた学生に対して政府が弾圧した天安門事件(1989年)を知らない人は少ないと思いますが、それに相当する韓国の大事件といえば、光州事件でしょう。光州事件は1980年に起こり、当時の軍事政権が「戒厳令」を出したことに対する民衆の反発が原因でした。
韓国全土で民衆のデモは起きますが、特に光州市は悲惨な状況で、死者195人、行方不明者406人と言われています。
ではここで歴史のおさらいです。そもそも現在の韓国と北朝鮮を含めた朝鮮半島は、長らく一つの国でした。918年に高麗が半島全土を治めてから、1910年に日本が朝鮮半島を併合するまで、ずっと一つの民族、一つの国家だったわけです。
戦後、日本の支配から逃れると、1945年に半島の北側はソ連主導の共産国家、北朝鮮、南側はアメリカ主導の韓国に分裂します。大国の都合により引き裂かれた国家はこの時に誕生しました。ちなみに、この第二次世界大戦を機に二つに分裂した国家には、ドイツ(西ドイツ、東ドイツ)、ベトナム(北ベトナム、南ベトナム)などありますが、すべて統一を果たしています。しかし、朝鮮半島だけは現在に至るまで統一することはありません。韓国人の心に深く残った南北分裂の歴史は、その後も2025年にいたるまで生き続けています。
1950年代に勃発した朝鮮戦争は、1953年に停戦にいたります。ここで重要なのは、これはあくまで「停戦」(=戦いを休んでいる状態)なのです。南北で戦争中ではあるけど、ひとまず休んでいるという状態。だからこそ、あらゆることが戦争に優先される「戒厳令」が敷かれていて、これはなんとわりと最近である1987年まで続きます。つまり、韓国の近代の歴史を大掴みするとこうなります。
日本占領期(1910年〜第二次世界大戦まで)
↓
朝鮮半島分裂、南側は資本主義(アメリカ)陣営の「韓国」に。(1945年〜)
↓
朝鮮戦争(1950年〜)
↓
朝鮮戦争休戦(1953年)
↓
休戦後も戒厳令は続く(〜1987年まで)
↓
民主化を求める国民を軍事政権が弾圧する光州事件が起こる(1980年)
↓
戒厳令終了。民主化宣言。初の大統領選挙。ソウルオリンピック(1988年)
こうやって考えると、ソウルオリンピックの開催は、韓国人にとって悲願だったと言えるでしょう。かくして「先進国」に住む私たちが当たり前のように享受する民主主義や基本的人権などは、韓国においては80年代後半にようやく実現したといえます。わりと最近でしょ? 2024年12月に韓国では戒厳令が一晩だけ発令されたというニュースが記憶に新しいと思いますが、なぜあの日、韓国国民は慌て、怒ったのか。それは、戒厳令が苦い歴史を思い起こされるからです。
戒厳令を発令した政府に反発した韓国の歴史を知る上で重要な光州事件のことは、「タクシー運転手 約束は海を越えて」に詳しく追体験できます。韓国の歴史に興味がある人はぜひ。
K-POPのルーツ2 オジャパメン(어젯밤 이야기)/ソバンチャ(조용필)(1987年)
さて、そんな戒厳令が解除されたことを祝うように登場したダンスユニットがソバンチャ(소방차/「消防車」の意味)。歌って踊るグループがK-POPなら、ソバンチャこそK-POPのルーツと言えるでしょう。
この曲は、のちに日本の番組「ダウンタウンのごっつええ感じ」でカバーされたことで、日本人にも馴染みのある曲になりました。なんでも、ダウンタウンの浜田雅功が韓国に旅行中に偶然この曲を聴いて、この曲をカバーしようと思ったのがきっかけだったとか。
どちらにしてもこれはごく初期の、日本の芸能界と、韓国の歌謡界の数少ない交流だったと思います。
「オジャパメン」ダウンタウンのごっつええ感じバージョン(1992年ごろ?)
ちなみに私はこれが人生で最初に聴いたK-POPでした。
私と韓国3 ボクと僕の恋と失恋
さて、私は20歳。ということは2001年ごろの話。当時、アルバイトとともに、友人と一緒に路上で自作の詩やイラストを売って日銭を稼ぐ暮らしをしていた私は、その路上で高校の制服を来たかわいい女子と知り合いました。
女子高生「あなた、いくつ? 名前は?」
私「20歳。名前はXX。君は?」
女子高生「まゆみ。17歳。ねえ、私と友達になってよ。連絡先教えて」
私「い、いいよ」
女子高生「友達なら家に遊びに行ってもいいよね?」
私「おれ、ひとりぐらしなんだよね。一人暮らしの男があなたのようなかわいい女を部屋に招いたら、どうなるか知ってる?」
女子高生「うーん。何してもいいよ♡」
高校生のまゆみはそう言って無邪気に笑いました。彼女より年上とはいえまだ子供だった私は、この無邪気な女性をどう受け取っていいかわからず、さりとて突き放すこともできずに、自転車で二ケツをしながら私の部屋に向かうことになりました。
まゆみ「ねえ、彼女いるの?」
私「いないよ」
まゆみ「私と付き合うなら、してもいいよ」
私「するって何を?」
まゆみ「・・・」
私「未成年か。どうしよっかな」
まゆみ「いくじなし」
メンタルが童貞の私をよそに、私の部屋に来て、興味津々で見て回りました。私の部屋の本棚を見ていた彼女は、私の本を見てニヤニヤするので、私も自然と小説の話になりました。
私「村上春樹の最高傑作は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だと思うわけ。世界の終りっていう幻想的な小説と、ハードボイルド・ワンダーランドという文字通りハードボイルドな話があるんだけどさ、この二つの別々な話が微妙に混じり合ってくるわけ。それでね・・・」
まゆみ「ねえ」
私「世界の終り編は壁に囲まれていて、で、そこから抜け出したいような抜け出せないような。ねえ、これってさ、人間の心の二面性を表してるんじゃないかな。で、それで・・・」
まゆみ「ねえ! 映画は好き? 私、『GO!』って映画が好き」
私「あ、あれいい映画だよね。主演は窪塚でしょ。窪塚といえば『池袋ウェストゲートパーク』だよね。あれで・・・」
まゆみ「ベラベラしゃべりすぎ! まったく」
作品の話になるとアツくなってしまう私は、彼女の話も聞かずベラベラと喋ってしまいました。不機嫌になる彼女。沈黙できまづくなった私。
まゆみ「私のこと未成年で子供だっていうけど、あなたはそんな大人なわけ?」
私「・・・さっきの話だけど、なんていうか真剣に交際するにはまだお互いを知らないっていうか。えっと、そうだな、たとえば僕は君の上の名前をまだ知らない。教えて」
まゆみ「やだ」
私「なんで?」
まゆみ「やだから」
私「なんで苗字を言うことが嫌なの??」
まゆみ「しつこい!」
私「ねえお願い! 教えて」
まゆみ「ぼく」
私「は?」
まゆみ「だから、ぼく」
私「僕?」
まゆみ「ぼく。上の名前」
私「ふざけないでよ。何それ? どんな字を書くの?」
まゆみ「木へんに・・・やっぱり内緒!もう帰るね!」
そう言ってまゆみは自宅に帰ってしまいました。それ以来、何度かメールのやりとりをしたものの、まゆみは私の部屋に来なかったし、仲良くもなりませんでした。
「ぼく」とは「朴」で、韓国語読みでパクと言って、つまり彼女が在日韓国人だってことは、20歳の私にはよくわかりませんでした。この謎が解けるのは、確か20代も終わりぐらいだったと思います。もしもわかっていたら、彼女とどうにかなっていたのでしょうか。これが僕とボクの、恋と失恋。
K-POPのルーツ3 ポンチャック/イ・パクサ(이박사)(1995年あたり)
ポンチャックとは、韓国の演歌「トロット」をエレクトリックなシンセサイザーを加えてディスコ風にノリをよくした独特な音楽。彼は元々バスガイドをしていて、運転手が眠くならないように独特な音楽を演奏したのがきっかけだとか。だから、MCと歌手を両方1人でやってしまうわけですね。
80年代〜90年代の韓国では、長距離バス運転手が眠気覚ましのためによく聴いた音楽でした。だから、このMVも大型バスの前で歌ってるわけですね。
ポンチャックは、そのチープさとダサさのわりに、韓国料理ののように、一度食べるとなぜかクセになる音楽であります。イ・パクサは、私が知る限り最初に日本に招かれたK-POPスターだと思います。日本のテクノグループ、電気グルーヴや明和電機などとコラボしてました。サブカルキッズだった私は、一風変わったキャラであるイ・パクサを面白がってました。ある意味でPSYの元祖のような人かもしれません。
オレは宇宙のファンタジー 明和電機✖️イ・パクサ
開け!ポンチャック イ・パクサ✖️電気グルーヴ
K-POPのルーツ4 I Know/ソテジ・ワ・アイドゥル(Seotaiji and Boys/서태지와 아이들)(1992年)
本当の意味で、K-POPの歴史がスタートする!
さて、上述のポンチャック、イ・パクサが、いわばサブカル的な面白がられかたをされ日本に紹介された一方、韓国歌謡界には大きな進化が現れました。その象徴がソテジ・ワ・アイドゥル(翻訳すると『私たちはアイドル』という意味です)です。この曲、1992年の曲ですが、今の耳で聴いても結構かっこいいんですよ。ほんとに、洋楽っぽい。このソテジ・ワ・アイドゥルこそ、はるか後方を走る国だった日本の音楽界との差を一挙に縮めた、かっこいい、本当の意味でK-POPの源流だと私は思ってます。
嫌韓の日本人が、「K-POPは日本のJ-POPをパクった」あるいは韓国好きの人の間でも、「K-POPは日本のダンス&ヴォーカルグループに影響されて生まれた」、というのは定説ですが、果たして現在のK-POPはJ-POPをパクった、あるいは進化させただけで世界的なブームを巻き起こせるでしょうか。私には、K-POPをK-POPたらしめたのには、もう一つの要素があると思います。
私は韓国歌謡界にもう一つ流れる「黒い流れ」に着目したいと思います。たとえば韓国にはコジマリヤ(거짓말이야)という1971年に発表され大ヒットした曲がありますが、この曲は日本と同様、歌謡曲ですが、このクセのある歌い方、どこかR&Bやソウルミュージックに通じませんか? そう、韓国音楽界には、ずっとボトムラインに黒人をベースにしたソウルミュージックの影響を感じます。
1950年代に北朝鮮と停戦合意してからも、韓国と北朝鮮には緊張関係が続きました。アメリカ=日本=韓国、つまり西側諸国において、韓国の38度線はいわば東側諸国との緊張の境界線だったのです。だから、この付近には日本とは比較にならない規模の米軍基地があり、大量の米軍が駐留しました。地図を見るとわかりますが、軍事境界線から首都ソウルまではかなり近いです(ソウルの中心、ミョンドンから、国境の街、パジュまでは、電車でわずか1時間10分。通勤圏内)。そのため、ソウルで音楽を志す若者の多くも、夜な夜な38度線近くに設営された米軍キャンプに出向いて演奏会に参加しました。
日本でも戦後の米軍基地で、兵隊を癒すための音楽が必要なところからバンドが求められ、グループサウンズが登場し、日本のポップスの基礎となりましたが、これは韓国においても同様です。米軍基地から洋楽が韓国内に入ってきたことは、たとえば、2020年公開の映画、「スウィング・キッズ」などでも描かれています。
さて、いつ戦争が再開してもおかしくないような38度戦の最前線には、現場を担う下級兵士が多く配属されました。彼らのなかには、アメリカ国内において社会的階層が低かった黒人が多く混ざっていました。このことを示すように、「スウィング・キッズ」にもキーマンとして黒人兵士が登場します。日本との違いは、日本には白人の兵士が韓国より多かったことです。さて、韓国に派遣された黒人兵士が好んだのは当時の言葉でレイス・ミュージック。つまり、ソウルやR&Bの類です。日夜ベースキャンプで演奏するバンドマンのなかから、韓国歌謡界の基礎は出来上がってきます。
私が思うに、このとき、進駐軍から教わった洋楽が、日本はやや白っぽく、韓国はやや黒っぽかった。このベースが、日韓の音楽の趣向の違いに通奏低音のように流れてると感じます。なお、日本においては沖縄の米軍は黒人が多かった。これが沖縄のR&B化(フィンガー5、安室奈美恵、アクターズスクールから、Awichまで)の根底に流れていると私は感じています。
そして、韓国、K-POPも、その特徴として、R&BやHip Hopとの相性の良さが挙げられます。
世界に目を向けると、マイケル・ジャクソンの成功により1980年以降から現代まで、急速に黒人音楽はアメリカにおいて主流にのしあがります。今や白人も黒人もアジア人も、R&BやHip Hopを好む時代になりました。そんな時代において、黒人に大きく影響された韓国歌謡が、日本歌謡よりも大きく成功するのは、ある意味で必然のストーリーだったと言えるかもしれません。
(参考図書)韓国ポップのアルケオロジー(1960〜70年代)
韓国と内乱2 アジア通貨危機(1997年)
民主化→ソウル五輪→ソテジ・ワ・アイドゥルと波に乗る韓国ですが、ここでアジア通貨危機という経済危機が起こります。韓国ウォンの価値は急激に下がり、インフレが止まらなくなり、人々の生活は突然締め付けられました。
楽園の地図は経済誌ではないのでアジア通貨危機の説明は端折りますが(知りたい人はWikipediaをどうぞ)、このとき韓国は、国が滅ぶかもしれないという経験をしました。元々高かった自殺率は上昇。
この時、IMF(国際通貨基金)は、韓国にお金を貸す代わりに、経済の自由化、グローバル化を推し進めます。戦後から温存された財閥は徹底して破壊され、企業の古い経営者は刷新され、徹底した組織の再編と、弱小企業の倒産、弱肉強食が行われました。この結果、韓国は日本と比べて極端に中小企業が少なく、一方でサムスン、LG、ヒュンダイなどグローバルでも戦える企業が多く育つ結果となりました。
極端に表現すれば、韓国は一握りの大企業と、零細企業による国です。日本は中間となる企業が厚く、これが日韓の大きな経済上の違いです。私が思うに、アジア通貨危機の結果、いいことが一つ、悪いことが一つ起こりました。悪いことは、韓国は日本とは比べ物にならない格差社会になったこと。一握りの大企業に就職するため当然受験戦争は激しいものになり、日本以上の競争社会です。一方でいいこともあります。それは、一握りの韓国大企業は、通貨危機をくぐり抜けた精鋭たちで、国際的な競争力の強い会社が残ったことです。これは後の韓国企業の勢いにつながっていくと思います。
私と韓国5 韓流旋風現る。ヨン様のヅラをかぶる
2004年、23歳。この前後、『冬のソナタ』が大流行し、世に韓流ブームなるブームがやってきました。この頃から、本格的に韓国産のドラマや映画が日本でも紹介されるようになってきました。
東京に上京した私は、なぜか『キネマ旬報』の編集部に行って、ヨン様のヅラを被るという仕事をしました。これが私の東京デビュー。ライターデビュー。私はどうも韓国と縁があるらしい。
ヨン様と前後するように、「シュリ」(1999年)、「JSA」(2000年)、「殺人の追憶」(2004年)、「息もできない」(2008年)など韓国産の映画のヒットが続き、私も少しずつ韓国映画に触れ合うようになってきました。
JSAは、韓国の娯楽映画ではっきりと、北朝鮮国民との友好を描いた作品で、これ以降ヒットする韓国映画には、直接的だったり、暗喩だったりしてもなお、北(朝鮮)が描かれていることが多いことに気づきました。
私の中でアジア映画といえば香港ムービーしかなかったところに、独特の緊張感(それは、首都ソウルのすぐ横に軍事境界線がある韓国を象徴しているかも)を持ったK-MOVIEを、少しずつ愛するようになってきました。
韓国とサイバー 世界最大のインターネット普及率
アジア通貨危機をなんとか乗り越えた韓国。
時の大統領、金大中(キム・デジュン)は、企業の改革や経済の自由化とともに、ある英断をくだします。それは、韓国をインターネット大国にするという野心でした。ちょうど、1997年と言えば、ちょうどWindows95がようやく自宅に登場するかしないか、大衆へのインターネット普及の序章の時期です。
キム・デジュンが推し進めたインターネット普及は予想以上に進行し、2001年の段階ですでに2000万人の国民がインターネットを使用し、2003年には光回線の契約率が世界1位になります。あっという間に、途上国に気が生えたようなものと思われていた韓国は、一夜にして世界最大のサイバー大国に生まれ変わります。
私は今回の記事で、なぜあれほど遅れていた(ように見えた)韓国が日本をキャッチアップできたのか、ということを紹介したいのですが、主に3点。一つは根底にアメリカ軍基地を起点とした洋楽文化を見習った音楽文化が醸成されたこと。そしてもう一つにアジア通貨危機をバネに、市場に強い企業が多く誕生し、競争心の強い人々が現れたこと、そして最後に世界で最もインターネットの普及率が高かったことが挙げられると思います。
この結果、韓国にはNAVERやKAKAOという会社も生まれ、LINEやカカオトークというコミュニケーションアプリが登場したのは知っての通り。
ここから先は、長らく日本の後背を喫した韓国が、恐るべしキャッチアップを展開します。
K-POPのルーツ4 KARAと少女時代(2007年〜)
さて、日本人からすると、ポンチャックとか言ってなんか「いなたかった」印象だった韓国人が、黒船のように日本に大上陸する時代がやってきました。ここまでの韓国芸能史を振り返ると、これは偶然ではなく、ただ着実に準備されていたものがようやくここで開花したという側面が強いと思います。まるでガラケーのように独特に進化した「モーニング娘。/ハロー!プロジェクト」や「AKB48」に比べ、欧米にでも受けそうな高身長に抜群なスタイル、お尻を強調したセクシーなダンスを売りにしたK-POPアイドルたちは、じわじわとまずはアジア地域での侵攻を始めます。今となってやがて世界を獲るとも知らずに、日本に(表面上は)よく似たガールズグループに夢中になりました。
Gee/少女時代(2007年)
Mr./KARA(2009年)
すでにこの時点で、かなり音楽的にもダンス的にも現代に通じる音楽ができていることに気づくはずです。ソテジ・ワ・アイドゥルから15年。芸能関係者の経験値も十分です。
さらに世界で最も早く高速インターネットが普及した韓国では、曲とともに凝ったMVに予算がかけられるることになりました。タイミングのいいことに、時はYoutube時代前夜。これがK-POPの世界進出、あるいは技術面での進化→K-Movieの世界的成功にも繋がっていきます。
私と韓国6 「サニー 永遠の仲間たち」 2011年
さて、私にとって、少女時代やKARAが韓国文化すごいじゃん!の「ホップ」だとしたら、2011年公開の映画「サニー 永遠の仲間たち」が「ステップ」です。これは今でも私がフェイバリットとして挙げる映画で、韓国映画のなかでも大きな金字塔の一つだと思います。
みんなが大好きな青春再開モノ。映画好きな私ですが、あまり映画を観てなくという経験のない私が、これを観ると無条件で泣いてしまうという映画の一つです。
すでに「シュリ」「殺人の追憶」などで世界的に一定の評価を得ていた韓国映画ではありますが、この時点では、韓国の映画と言えばノワール(犯罪モノ)というイメージもあり、つまり暴力や犯罪、猟奇殺人の映画が韓国映画のイメージだったわけですね。あるいは冬ソナのような女性向けのコテコテのラブコメか。そんな中、エンタメの王道中の王道、青春感動モノの映画が現れて、私の中の「韓国」のイメージが一新されました。
KARAも少女時代もいいし、「サニー」もいい。どうやら、韓国という国はもはや日本より少し遅れた、キャッチアップの国ではないらしい。そうやってノックアウト寸前だった私の耳に、とどめとなるような、カンナム方面からやつの音楽が入ってきました。
私と韓国7 カンナムスタイル/PSY 2012年
映画というのは、比較的国際色の高いエンタメの一つです。言い方を変えれば、世界進出は比較的容易な業界と言えるかもしれません。日本人の映画監督も海外でよく知られているし、アジア全体に有名な監督は存在します。一方、音楽は映画と比べると圧倒的に言語の壁が強いエンタメです。
つまり、韓国語や日本語の曲がいかに優れていても、それが世界的にヒットする状況というのはなかなか起こり得ませんでした。少なくても2011年までは。
PSYは韓国人で初めて、アメリカのビルボードチャートで2位まで上り詰めました。これはアジア人と範囲を広げても、「上を向いて歩こう/坂本九」(1961年)以来の奇跡です。日本では坂本九以降、アメリカのチャートに登場するアーティストを送り込めませんでしたが、PSYはそんな奇跡をやってのけました。極端に言えば、日本に一度は併合され(1910年)、戦後はアメリカ軍が駐留され続けた韓国が、初めて日本やアメリカと互角に渡り合えるキラーコンテンツを手に入れた瞬間と言えば言い過ぎでしょうか。カンナムスタイルはそのぐらい光り輝いた名曲だと思います。アメリカ人が初めてビートルズを聴いた衝撃に近かったんじゃなかと言えば大袈裟でしょうか。ホップ、ステップと来てジャンプを果たした韓国芸能。
改めて13年ごしにカンナムスタイルを聴くと、言語という壁を軽く飛び越える強烈な個性を持った曲だということが改めてよくわかります。ぜんぜん古くないし。ただ、これは韓国にとってゴールではなく、日本をキャッチアップし続けた韓国が、日本を尻目に世界進出を始めるスタートラインであったことは、まだ日本人にはよくわかっていませんでした。
私と韓国8 赤坂の夜
20代にしてベンチャー企業の社長になった私は、総勢5人の社員を連れて、取引先であったとある大手広告代理店との打ち合わせに挑みました。
ところが、
取引先の偉い人「えっと。みんなは帰って。で、楽園くん。君だけ別室に来るように」
残りの社員は先に解散するように伝えられました。社員は心配そうに私をみていました。別室に連れて行かれ、こってり納品物に対するダメ出しを受けた私。いつも打ち合わせには隣に誰かがいてくれたけど、その日は社長の私だけが叱られていました。
考えてみれば、以降も私だけが呼び出されて叱られるという機会はとても多かったように思います。私の人生を振り返ると、とても怒られる機会の多かった人生と言えるかもしれません。私だって褒められたい。一方で、社員のミスもかぶって謝るときは、私も大人になったものだと思いました。
さて、広告代理店の打ち合わせのあと、赤坂の韓国料理屋に移動した社員と合流した私。怒られた後、赤坂で食べたソルロンタンは美味しかったです。このお店は現存しません。赤坂は古いコリアンタウンですが、今やその面影は少なくなっています。現存する美味しい韓国料理屋さんは、赤坂一龍ですかね。お試しあれ。

赤坂一龍のソルロンタン。怒られた帰りによく食べました。
私と韓国9 ボクのその後
東京の街にカンナムスタイルが流れる冬の日、ある女性がTwitterで突然私にDMを送ってきました。
Mayumi_P「覚えてる?」
私「誰でしょう?」
Mayumi_P「当ててみて」
私「え、怖いんですけどw」
Mayumi_P「天王寺、路上。まゆみ。覚えてない?」
私「ん? あの時の女子高生のまゆみ??」
痛い人からの連絡かなと思っていた私は、DMの送り主があの日の女子高生、まゆみだったことを知り、久しぶりに再開することになりました。今度は大阪じゃなく、六本木で。まゆみは世界的に有名な、アイルランドに本社を持つ外資系ITコンサル企業に就職していました。
まゆみ「あなた、社長になったんだってね。偉くなったね。」
私「いやあ。君こそこんな六本木で働いて、ねえ。XXなんて、超大手企業じゃない? あれからどうしてたの?いつ東京に上京したの?」
まゆみ「東京には早稲田大学に入学してからずっとかな。そのあとはXXに就職してからは、バンクーバーにいたこともあったけど、30歳で日本に戻ってきたの」
私「おお。そうなんだ。早稲田からXXかあ。そんでもって東京を飛び出してバンクーバーかあ。いやあ、エリートコースだね」
まゆみは当時のイタズラっぽい表情を浮かべ、「お互いに成功したね」と言って、舌を出してきました。
まゆみ「彼氏はいるの?」
私「奥さんがいるよ」
まゆみ「今日は奥さんに内緒で来たの?」
私「いやー、あんまり奥さんに詳細にスケジュールを話してないから。あはは」
まゆみ「ふうん。ま、私も彼氏はいるしー」
六本木ヒルズのイルミネーションは冬に向けてキラキラと輝いていました。
私「ねえ、もしもあの時、勢いで付き合ってたら、僕たちの未来は変わったのかな」
まゆみ「どうかな。よく考えたら、あなたみたいな人は私と釣り合わないわよ」
私「ふうん。なんで?」
まゆみ「さあ。私、あの頃のあなたが好きだった。濡れた犬みたいな目をしてて」
私「今は汚れちゃった?」
まゆみ「そこまで言ってないよ。」
なんとなく、これが最後の再会になる予感がしていました。
私「ねえ覚えている? ボクがしつこくあなたの苗字を聞いてさ。それであなたが『朴』って教えてくれて」
まゆみ「そんなことあったっけ?あんまり覚えてないかも」
私「今度韓国にでも遊びに行こうかな」
まゆみ「なにそれ」
私「いや、特に意味はないけど」
つまらなさそうにしていたまゆみは、グラスを眺めながら言いました。
まゆみ「ねえ、それで、今日はこれからどうするの?」
六本木で再会をした彼女とは、それが(今のところ)最後の日になりました。私は、社会に揉まれて汚れてしまったのかもしれません。私のほろ苦い気分と裏腹に、街は相変わらず底抜けに明るいカンナムスタイルが鳴り響いていました。このまま何か始まればそれはそれで面白かったんですが、ほんの少しだけ予感を漂わせながら私たちは解散しました。のちに「パスト ライブス」という映画で少し脚色されて私たちのエピソードは実写化されるんですが。なんちて。
私と韓国10 ウォンダンカムジャタン/明洞・ソウル(2013年)
その後、はじめて私は韓国に社員を連れて旅行に行くことになりました。写真はミョンドンのカムジャタンの名店、ウォンダンカムジャタンのカムジャタン。
以降、なんとなく3年に1回ぐらいのペースで韓国をふらっと訪れるようになりました。本当は、もっと韓国に遊びにいきたい。

ウォンダンカムジャタンのカムジャタン。じゃがいもが効いててめちゃくちゃうまい。この店は明洞のど真ん中にあるから行きやすいよ
ウォンダンカムジャタン(Google Map)
私と韓国11 「パラサイト 半地下の家族」(2019年)
その後の韓国映画、韓国ドラマの躍進はあなたが知る通り。「イカゲーム」(2021年)、「イテウォンクラス」(2020年)、そして「パラサイト」(2019年)。どれも世界中で大ヒットした映画やドラマです。少なくてもエンタメの世界においては、韓国は日本をはるかに追い越し、世界でヒットを生み出しました。今、在日韓国人として生まれた人たちは、かつての世代よりも、自分のルーツが韓国にあることを誇りに思う人が多いのではないでしょうか。「ボク」を隠すこともなかったかもしれません。
パラサイト 半地下の家族
さて、もはや6年前のヒット作なのでネタバレ覚悟で書きますが、パラサイトには、主役の貧しい一家と、乗っ取られるお金持ちの一家の他に、ある夫婦が登場します。その夫婦は、邸宅の地下に住んでいます。つまり、この映画には3つの家庭、階層が描かれています。
お金持ちの家庭は、坂の上の豪邸(上)に住んでいます。貧乏一家は、半地下(半分下)に住んでいます。そして、ある夫婦はそれよりも地下(もっと下)に住んでいます。パラサイトの主役は、なぜわざわざ「半地下」と呼ばれる場所にいるのか。それは、もっと「地下」があり、その地下とは、韓国の庶民よりもっともっと悲惨な目にあっている北朝鮮の人たちのことを示しています。そのことは、この映画で明示されています(わざわざその夫婦は総書記のモノマネをするシーンを入れています。他にも、彼らが北朝鮮の国民の暗喩であることは、この作品に散りばめられています)。
さて、韓国のあらゆるエンタメに登場するのは、直接的にも暗喩的にも「北」で、当たり前だけどまだ韓国は「北」の同胞の呪縛から逃れられていません。自分たちが成果をあげて、キラキラして、魅力的になってお金持ちになるほど、「北」は夢に出てきて「韓」を苦しめる。あんなにキラキラした曲をBTSやらPSYやらBLACKPINKやらが歌ってる、そこから電車でわずか1時間ちょっとの場所では、基本的人権も守られない人々が暮らしている。韓国人のことを理解するためには、このコントラストを考える必要があります。
一方で、このコントラストの存在が、ますます韓国のエンタメの深みとなり、面白さにもなっています。韓国の鬼才、ポン・ジュノがカンヌをはじめ世界中を総舐めにしたのもうなづけるところ。この作品は、アジアが産んだ映画としては、『恋する惑星』(ウォン・カーウァイ)に匹敵する歴史的な映画だと私は思います。
私と韓国11 APT. /Rose& Bruno Mars(2024年)
もはや韓国人が世界的なヒット曲を産んだところでまったく驚かなくなった2024年。Roseがガールズグループ=アイドルではなく、一種のアーティストとして受け入れられている状況も、BTS以降を生きる私たちであればなにも驚くことはありません。
本当なら宇多田ヒカルが、椎名林檎が、ジャニーズアイドルが、こうやって世界的なヒットを飛ばしていた世界もどこかにあったかもしれません。でも、現実はそうはなりませんでした。
アウトロ 黄色いシャツ(노란 샤쓰의 사나이)/ハン・ミョンスク(1961)
こうして、ソウルオリンピックの時点では24年の差がついていたはずの両国のランナーは、韓国の猛烈なキャッチアップによって、日本を追い越す勢いを手にしました。2022年には、一人当たり名目GDPで韓国は日本を超えます。
もちろんこれは一過性のもので、また再逆転はあるかもしれません。でも、現状において日韓の経済が同じぐらいのポジションにいるということは抗いようがありません。実際、韓国の街を歩いても、そこにあるのは日本によく似たアジア人による先進国の姿です。
2024年には韓国の作家、ハン・ガンがノーベル文学賞を受賞しました。もはやエンタメの分野だろうが文芸の分野だろうが、韓国の文化的勢いは止まりません。
ソウルの街に行くと、東京と大きな違いは、深夜まで人が遊んでいるというところだと思います。昔は六本木や歌舞伎町もそうだったと思いますが、いまやソウルの方がどう考えても楽しい街になりました。そうそう、K-POPの音楽的成功の裏には、ソウルの街のクラブ文化の影響も垣間見れます。過労死の多い、韓国人は、よく働き、よく遊ぶ。
私が思うに、「よく遊ぶ」は韓国の成功の鍵だと思います。日本人はいつの間にか遊ばない民族になりました。よく学び、よく遊べば、いずれ日本も勢いを取り戻すのではないかとおもってます。
(おわり)
すでに登録済みの方は こちら